<美沙の歴史Ⅰ>
はじめましての方に、私の事を知って頂く為に、今までの人生についてまとめました!
Ⅰでは、
超末っ子?超優等生?
人生で初めての挫折!
摂食障害の発症
幼少期~学生時代をまとめます。
野元美沙のプロフィール
・熊本県生まれ
・3姉妹の末っ子
・大学から東京在中
・在学中に芸能活動を開始
・大学2年~20代中盤まで、摂食障害を患う
・ヒプノセラピー(催眠療法)に出会い、摂食障害を克服
・自身もヒプノセラピストとして開業
・34歳で人生が変わる出来事が起きる
・低迷していた時期に運命的に「数秘」に再開
・自身の使命である「メッセンジャー」というお役目を果たす為に、数秘鑑定を始める。
5人家族、3姉妹の末っ子として誕生。
1番上の姉とは11歳、2番目の姉とは8歳差
かなり歳の離れた子供だった為、とにかく可愛がられて育ちます。
生まれた時から周りは大人だらけ
その影響もあってか、物心ついた頃から、
『自分がどう振る舞えば、大人が喜ぶか?』が自然と分かってしまうような子供でした。
父の仕事の転勤で、熊本⇒大分⇒北九州⇒熊本⇒鹿児島と、九州各地を転々としながら幼少期を過ごします。
小学校は3回転校
しかし、“友達と離れる”ということ自体は寂しくて辛かったけど、思ったよりはストレスも無く、楽しく過ごせていました
上述した通り、
人がどういう事をして欲しいか?
自分がどう振る舞えばいいのか?
という事が自然と分かってしまう子供だった上に、さらに、転校の経験を積む中で、「どこでも要領よく溶け込む」というスキルも、身に着けていきます。
また、勉強も運動も出来たので、<優等生>として先生達にも可愛がられていました
習い事も沢山
ピアノ、声楽、習字、英会話、水泳、ダンス等、毎日、学校から帰ったら習い事という日々でした。
「宝塚に入ろう!」
中学に入った頃、一番上の姉が宝塚歌劇団の大ファンという事もあって、宝塚を目指す事に!宝塚受験専用のダンス教室にも通ったりしていました
結果的には不合格で、宝塚の受験は中学校で終わりに
その当時の私には、レオタードを来てゼッケンを付けて、みんなの前で踊る!というのは、少し恥ずかしかったような記憶があります
中学2年生の時に、『創作ダンス』と出会います
<全日本高校・大学ダンスフェスティバル>という創作ダンスの全国大会の映像を見ていたのですが、その年に、文部科学大臣賞(全国優勝)を受賞していた『お茶の水大学』のダンスを見て、衝撃を受けます
「頭が良い人達が作るダンスは、社会性もあってなんて素晴らしいんだろう」
(この時のダンスのテーマは「チェルノブイリ原発」でした)
その時から、<お茶の水大学に入ってダンスをする!>という夢を持つように
そんな夢を抱きつつ、高校は地元の進学校に入学。
創作ダンス部が無くて、新体操部が夏の間だけ創作ダンス部になるという体制だったので、新体操部に入りました。
高校2・3年生で県大会2位に
通常は、1位と2位が<全日本高校・大学ダンスフェスティバル>に出場できたはずだったのですが、進学校だった為か?勉強に支障が出ると判断されたのか?なぜか出場させてもらえませんでした・・・
そこで、さらに<お茶の水大学に入ってダンスをする!>という想いが強くなります
ちなみに、高校3年間、オール5、内申10点満点と、本当になんでも出来たし、とにかく要領が良かったです笑
絵は描けないので、家に持って帰って父に描いてもらったり、裁縫も出来ないので、母に縫ってもらったりしていました・・・
(もう時効という事で正直に話します。笑)
そんな感じだったので、無事、お茶の水大学に合格し、ダンス部にも入部できました
ここまでは、本当に順調な道のりでした!!
大学に入学して、人生で初めての挫折を経験します
お茶の水大学のダンス部は、創作ダンス界では超名門なので「この学校に入ってダンスをやりたい!」と言う人が全国から集まります
浪人までして、入学してくる人もいるくらいでした。
よって、ダンスのレベルはもちろん全国トップクラス
鹿児島で、ちょっと上手だったくらいの私とは、レベルが全く違ったのです。
完全に場違い・・・
入って2日で、この学校辞めたいと思いました
どんなに努力しても追いつけるレベルじゃないという事もすぐに分かりました。
それが、ものすごく辛くて・・・でも、ダンスをする為にこの大学に入ったので、出来る限り頑張ろうと思い直しました。が!!本当にダンスには苦労しました。
幸い、在学中に、文部科学大臣賞(全国優勝)も経験する事が出来て、長年の夢も叶いました
しかし、自分の中では、「ダンスの業界で上を目指す!」という選択肢はもう無いなと思っていました。そんな矢先に、芸能界に誘われて、ラジオの司会やレポーター等をするように
芸能界は、想像した通りすごくキラキラした世界でした
しかし!
その当時の私は、自分の事を 「キレイでもないし可愛くもないし、なんにも出来ない」と思っていました。
オーディションに行けば、ものすごくキレイな人が山ほどいます。
それに、「人を蹴落としてまでのし上がって行きたい!」というような気持ちもあまりなくて・・・
目立てる場面でも「どうぞどうぞ」とライバルに譲ってしまう事も多く、マネージャーさんにも「なんで、そこで前に出ないんだよ」とよく怒られていました
当時、マネージャーさんが付いてきてくれる!という事は、当たり前では無かったので、期待はされていたと思うのですが、私自身がそんな調子なので、なかなかうまく行きませんでした。
芸能界にいると自信を無くして行く自分がいました。
事務所の人に「もうちょっと痩せたら?」と言われて、共栄ジムでプロのボクサーさんと一緒に減量をしたりしていました。
しかし、芸能界は“会食”も多くて、表向きでは「私は食べても太らないんです」という風に見せなくてはならず、出されたものは全部食べないといけないのです。
「食べても、こんなに細いんです!」というのが、その世界では一種の価値のようになっていたのです。
太ってはダメ。
でも、食べないといけない。
この相反するものを解決する方法。
それは・・・
「食べて吐くしかない…」
そんな理由で、大学2年生の頃から摂食障害を患うように。
それから、26歳くらいまでずっと摂食障害と共に生きていきます。
なんで、そんなに長い期間、治せなかったかと言うと、その当時の私にとっては、それが都合が良かったから!だったのです。
そうやって、<摂食障害=食べても痩せている状態>でいる事で、普段は見られないような世界を見る事ができて、美味しい料理やキラキラした事も経験させてもらえる
それを維持する&叶える為には、摂食障害を抱えたままの方が都合が良かった!メリットが大きかった!!
だから、真剣には治そうとしていなかったのだと、今は理解しています。
その一方で、はたから見たらキラキラに見えている自分と、現実の自分とのギャップが辛くもありました
ちょっと不幸バナシみたいになってしまっていますが、それなりに遊んだりもしていたし、毎日楽しく過ごしてはいました
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今だから分かるのですが、幼い頃から、甘やかされて自分勝手に生きているようで、心の中はそうでは無かったのです。
「こうした方がいい」
「こうすべき」
などという概念に、無意識のうちに合わせている、いわゆる典型的な良い子をずっとやっていたのです。
例えば「100点取りなさい!」なんて言われた事も無いのに「100点を取る事が良い事だ!」と思って、無意識のうちにそこを目指していた。
そういう意味でも、摂食障害になりやすい要素を持ち合わせていたのだと思います。
つづく・・・
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